大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成5年(オ)340号 判決

上告人

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

斎藤義房

八塩弘二

石川邦子

古口章

岡慎一

坪井節子

伊藤重勝

末吉宜子

黒岩哲彦

須納瀬学

楠本敏行

石橋護

古波倉正偉

児玉勇二

平湯真人

吉澤雅子

柴垣明彦

森野嘉郎

伊藤芳朗

村山裕

被上告人

学校法人修徳学園

右代表者理事

名取守之祐

被上告人

修徳高等学校校長

名取守之祐

右両名訴訟代理人弁護士

小林英明

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人斎藤義房、同八塩弘二、同石川邦子、同古口章、同岡慎一、同坪井節子、同伊藤重勝、同末吉宜子、同黒岩哲彦、同須納瀬学、同楠本敏行、同石橋護、同古波倉正偉、同児玉勇二、同平湯真人、同吉澤雅子、同柴垣明彦、同森野嘉郎、同伊藤芳朗、同村山裕の上告理由第一ないし第三及び第一〇について

所論は、修徳高校女子部の、普通自動車運転免許の取得を制限し、パーマをかけることを禁止する旨の校則が憲法一三条、二一条、二二条、二六条に違反すると主張するが、憲法上のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体と個人との関係を規律するものであって、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁)の示すところである。したがって、私立学校である修徳高校の本件校則について、それが直接憲法の右基本的保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はない。所論違憲の主張は採用することができない。

私立学校は、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針によって教育方針によって教育活動を行うことを目的とし、生徒もそのような教育を受けることを希望して入学するものである。原審の適法に確定した事実によれば、(一) 修徳高校は、清潔かつ質素で流行を追うことなく華美に流されない態度を保持することを教育方針とし、それを具体化するものの一つとして校則を定めている、(二) 修徳高校が、本件校則により、運転免許の取得につき、一定の時期以降で、かつ、学校に届け出た場合にのみ教習の受講及び免許の取得を認めることとしているのは、交通事故から生徒の生命身体を守り、非行化を防止し、もって勉学に専念する時間を確保するためである、(三) 同様に、パーマをかけることを禁止しているのも、高校生にふさわしい髪型を維持し、非行を防止するためである、というのであるから、本件校則は社会通念上不合理なものとはいえず、生徒に対してその遵守を求める本件校則は、民法一条、九〇条に違反するものではない。これと同旨の原審の判断は是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものであり、採用することができない。

その余の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、その過程に所論の違法はない。右事実によれば、(一) 修徳高校は、本件校則を定め、学校に無断で運転免許を取得した者に対しては退学勧告をすることを定めていた、(二) 上告人の入学に際し、上告人もその父親も本件校則を承知していたが、上告人は、学校に無断で普通自動車の運転免許を取得し、そのことが学校に発覚した際も顕著な反省を示さなかった、(三) しかし、学校は、上告人が三年生であることを特に考慮して今回に限り上告人を厳重注意に付することとし、上告人に対し本来であれば退学勧告であるが今回に限り厳重注意としたことを告げ、さらに、校長が自ら上告人と父親に直々に注意し、今後違反行為があったら学校に置いておけなくなる旨を告げ、二度と違反しないように上告人に誓わせた、(四) 上告人は、それにもかかわらず、その後間もなく本件校則に違反してパーマをかけ、そのことが発覚した際にも、右事実を隠ぺいしようとしたり、学校の教諭らに対して侮辱的な言辞をろうしたりする等反省がないとみられても仕方のない態度をとった、(五) 上告人は、本件校則違反前にも種々の問題行動を繰り返していたばかりでなく、平素の修学態度、言動その他の行状についても遺憾の点が少なくなかった、というのである。これらの上告人の校則違反の態様、反省の状況、平素の行状、従前の学校の指導及び措置並びに本件自主退学勧告に至る経過等を勘案すると、本件自主退学勧告に所論の違法があるとはいえない。これと同旨の原審の判断は是認することができる。所論は、違憲をも主張するが、その実質は本件自主退学勧告の裁量逸脱の違法をいうものにすぎない。論旨は、帰するところ、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違背をいうものであって、いずれも採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官井嶋一友 裁判官小野幹雄 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男 裁判官藤井正雄)

上告代理人斎藤義房、同八塩弘二、同石川邦子、同古口章、同岡慎一、同坪井節子、同伊藤重勝、同末吉宜子、同黒岩哲彦、同須納瀬学、同楠本敏行、同石橋護、同古波倉正偉、同児玉勇二、同平湯真人、同吉澤雅子、同柴垣明彦、同森野嘉郎、同伊藤芳朗、同村山裕の上告理由

(目次)

(はじめに)本件訴訟において最高裁判所に期待されていることは何か〈省略〉

第一、原判決には、私立学校には憲法の人権保障規定が直接的にも間接的にも適用がないとした点で憲法解釈の誤りがある

第二、原判決の校則制定の法的根拠・校則で規制できる事柄の限界・校則の法的効力についての判断は憲法解釈を誤るものである〈省略〉

第三、本件パーマ禁止及び本件運転免許制限校則を有効とした原判決は、憲法一三条、二一条、二二条、二六条に違反する

第四、本件処分(実質的退学処分)は、学習権を保障する憲法一三条、二六条、および適正手続を保障する憲法三一条に違反するものであるところ、これをみすごして処分を有効とした原判決は右憲法各条項の解釈を誤るものである〈省略〉

第五、本件処分(実質的退学処分)は、学校教育法、同施行規則などに違反し違法・無効なものであるところ、これをみすごして処分を合法とした原判決の法律判断の誤りは重大であって、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである

第六、原判決が、本件処分にあたり学校が教育的適正手続を履行したと認定し、また退学処分の実体的要件があると認定したのは、経験法則、採証法則に違反しており、その違反は重大で判決に影響を及ぼすことが明らかである〈省略〉

第七、原審には、証人関根竹美の証言など原審で取調べた重要な証拠を一顧だにしない点で審理不尽、理由不備の違法があり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである〈省略〉

第八、原判決は、本件処分の実体的な合法要件についての上告人の主張に対する審理不尽、理由不備の違法があり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである〈省略〉

第九、原判決は、本件処分の手続的な合法要件についての上告人の主張に対する審理不尽、理由不備の違法があり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである〈省略〉

第一〇、原判決は、私立学校における人権侵害に憲法の間接適用をも否定する理由を述べておらず、理由不備の違法がある〈省略〉

はじめに〈省略〉

第一、原判決には、私立学校には憲法の人権保障規定が直接的にも間接的にも適用がないとした点で憲法解釈の誤りがある

上告人は、私立学校と生徒の関係については憲法の基本的人権保障の規定が適用されると解釈すべきと考える(第一次的主張―この点は、後記二で述べる)。また、仮に右のような立場(類型によって憲法の直接適用を認める立場)を採用しないとしても、少なくとも人権規定の間接適用を認め、私法法規の解釈を通じて人権侵害の有無が実質的に審査されるべきであると考える。

ところが、原判決は、憲法の人権保障規定の間接適用自体を否定しているのであり、この点で、明らかに憲法解釈を誤ったものである。

一、原判決による間接適用説の否定

1、間接適用説の意義

間接適用説とは、私人間における憲法の人権保障規定の効力については、規定の趣旨・目的から直接的な私法的効力をもつ人権規定を除き、その他の人権については、法律の概括的な条項または文言、とくに民法九〇条の公序良俗規定のような私法の一般条項の解釈を通じて、憲法を間接的に私人間の行為に適用すると解釈する立場である。

我が国の学説の多数がとる立場であり、次に見るように、最高裁判所判例の立場でもある(芦部信喜「憲法判例を読む」八〇頁他参照)。

2、最高裁判例の立場

最高裁は、三菱樹脂事件昭和四八年一二月一二日大法廷判決において、「基本的人権観念の成立および発展の歴史的沿革」「憲法における基本権規定の形式、内容」「私的自治」を根拠に「一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を越えた場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整を図るという建前がとられているのであって、‥‥基本権保障規定をそのまま私人間相互間の関係についても適用ないし類推適用すべきものとすることは決して当を得た解釈ということはできないのである」として直接適用説を否定したうえで、「私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によってその是正を測ることが可能であるし、また、場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な適用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである」と判示した。

この判決は、最高裁として、判断の枠組として前記間接適用説の立場を初めて明らかにしたものと評価されている(芦部信喜、有斐閣大学双書憲法Ⅱ五四頁他)。

右の立場は、私立大学の学生退学処分をめぐる昭和女子大事件についての最高裁第三小法廷昭和四九年七月一九日判決(判例時報七四九号三頁)でも踏襲されている。(なお、この昭和女子大事件最高裁判決は、冒頭部分では前記昭和四八年最高裁判決引用しつつ直接適用を否定する趣旨のみを述べているが、上告理由第二章に対する判断(退学処分の違憲性を判断した箇所)で「このような実社会の政治的社会的活動に当たる行為を理由として退学処分を行なうことが、直ちに学生の学問の自由および教育を受ける権利を侵害し公序良俗に違反するものではない」として、憲法上の人権を民法九〇条解釈において考慮しており、間接適用説によっていることはこの点からも明らかである。)

さらに、女子若年定年制事件についての最高裁昭和五六年三月二四日第三小法廷判決は、「就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法九〇条の規定により無効であると解するのが相当である(憲法一四条一項、民法一条ノ二参照)」と判示した。

この判決は、憲法一四条を明示したこと、その趣旨をふまえて就業規則を違法無効と判断した点で注目され、最高裁判所の判例が、間接適用説の立場を採用していること、事案によっては憲法の人権規定を積極的に考慮する姿勢をとっていることを改めて明確にしたものと評価できる。

3、原判決における間接適用説の否定

ところが、原判決は、間接適用説をも否定し、結局、私立学校と生徒の関係について憲法の基本的人権規定が全く適用されない、との立場に立っている。

すなわち、原判決は、憲法規定の適用についての総論的判示として、「憲法の自由権規定は国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であって、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推されるものではないから、私立学校である修徳高校の適用について直接憲法の右基本権保障規定に違反するか否かを論ずる余地はなく、私立学校が公共性を持ち、国や地方自治体から公費援助を受けているからといってこのことが左右されるものではないというべきである」と述べる。

この判示は、前掲昭和女子大判決の冒頭部分とほぼ同様の表現を述べたもので、一見すると、最高裁の判決例を踏襲するようにも読める。

しかし、実際には、原判決は、最高裁判所の判決例とも異なり、憲法規定の間接適用をも否定しているというほかない。

第一に、前述したように、最高裁の判決例は、直接適用を否定したうえで後段で間接適用の立場を表明しているのであるが、原判決は、間接適用につき全く判示していない。

第二に、原判決は、第一審判決中の間接適用説にたった判示部分をすべて削除している。

すなわち、第一審判決は、総論として、「憲法の自由権的基本権保障規定は国又は公共団体と個人との関係を規律するものであるから、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないが、私立学校は、現行法制上、公教育の一翼を担う重要な役割を果たし、その公的役割にかんがみて国又は地方公共団体から財政的な補助を受けているのであるから、一般条項である民法一条、同法九〇条に照らして同校の校則の効力を判断するさいに、憲法の趣旨は私人間においても保護されるべき法益を示すものとして尊重されなければならない」と判示したが、原判決は、右判示の後半部分(間接適用説を明示した部分)を削除した。

また、第一審判決は、校則の違法性の具体的検討において、「個人が頭髪について髪型を自由に決定しうる権利は、‥‥憲法一三条により保障されていると解される」との判断を示したうえで、校則による髪型決定の自由の制約について検討し、また、「普通自動車の運転免許を取得して、自動車を運転することは、社会生活上尊重されるべき法益ということができる」としたうえで、校則による運転免許取得の自由の制約について検討している。

間接適用説に立つ場合、問題となっている自由の憲法上の位置付けについて判断することは不可欠な論点であることはいうまでもない。ところが、原判決は、髪型の自由が憲法一三条で保障されているとの判示及び運転免許取得の自由が社会生活上尊重されるべき法益であるとの判示部分を削除し、この点について全く判断を示すことなく校則の効力を肯定したのである。

このように、原判決が、間接適用をも否定する立場を表明したものであることは明らかである。

二、私立学校(公教育)に対する憲法不適用論の誤り

上告人は、以下に述べる理由から、私立学校と生徒の関係には、間接適用説をさらに進めて、憲法の人権規定が直接適用されると解釈されるべきであると考える。したがって、憲法規定の適用を否定した原判決には、この点で憲法解釈の誤りがある。

また、仮に、間接適用説を前提とするにしても、適用否定説でない以上、私法法規の解釈を通して、人権侵害の有無が審査されるべきことはいうまでもなく、その審査に際しては、以下の諸点を考慮して、安易に私的自治を重視することなく、生徒の人権保障の観点を重視した判断が行なわなければならないと考える。したがって、原判決は、前述したように間接適用自体を否定し、生徒の人権に全く考慮を払っていない点で憲法解釈を誤ったものである。

1、私立学校の公的性格

(一) 私立学校は、国公立学校と同様、教育基本法、学校教育法に基づいた公教育機関として設置された公的存在である。

このことから、私立学校は、「公共性」を担わされた機関であることが明記され(私立学校法一条、教育基本法六条)、文部大臣が広範な認可・命令権限を有している(私立学校法五条)。また、生徒はその思想信条によって差別されざること(教育基本法三条)、公民たるに必要な政治的教養は教育上これを尊重すべきこと(同八条)等国公立学校と共通の法的義務を負っているのも、私立学校の公教育機関としての性格を明瞭に示している。そして、本件で問題となる生徒懲戒についても、学校教育法一一条が国公立、私立を問わず適用されている。

また、このように公教育の一翼を担う重要な役割を果たしているからこそ、私立学校には私立学校振興助成法によって国からの公費援助が行なわれているのである。(なお、前記昭和女子大事件最高裁判決についていえば、同判決は、私立学校振興助成法が制定された昭和五〇年以前の事案について判断したもので、同法の成立により、今日では私立学校の公教育機関としての性格は一層強くなっていることに注意しなければならない。)

なお、最高裁も、富山大学単位不認定事件昭和五二年三月一五日判決で、「大学は、国公立であると、私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であ」ると判示し、在学関係につき国公立と私立を区別せずに論じている。この論旨も、右に見た私立学校の公的性格を前提としてこそ是認しうるのであり、一方でこのような見地に立ちながら、生徒の人権についてだけ国公立学校と私立学校において全く異なった取り扱いを行なうことは不当というべきである。

(二) このように、私立学校が公的性格を強く持つことは、アメリカの判例法上の「国家同視説」という考え方にもあるように、憲法の直接適用を部分的に肯定する根拠となるものである(国家同視説は、アメリカの判例によって確立された理論であり、人権は対国家的なものという伝統的な観念を前提にしたうえで、具体的な私的行為による人権侵害についても、その私的行為を分析し、それが国家権力が財政援助や各種の監督ないし規制を通じてきわめて重要な程度にまでかかわりあいになっている場合、もしくはある私的団体が国の行為に準ずるような高度に公的機能を行使する場合に、国家権力による侵害と同視して憲法を適用する理論である。・芦部信喜、有斐閣大学双書憲法Ⅱ四六頁、九六頁以下)。

また、仮に、間接適用という枠組を維持するとしても、当該私人関係において私法解釈に人権価値をより積極的に導入する重要な根拠となるというべきである。

2 私立学校に対する憲法二六条及び一三条の直接の要請

(一) 憲法二六条は、子どもの学習権保障を基礎づける規定と解されるところ、この規定は当然に公教育機関としての私立学校にも妥当する。

最高裁旭川学力テスト事件昭和五一年五月二一日判決も、「教育を受ける権利」を保障する憲法二六条の「規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、(中略)子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」と判示したが、この「成長発達権」「学習権」を充足させるものとして設置されているのが私立学校を含む公教育機関なのである。

(二) 重要なのは、この子どもの成長発達する権利、学習権の観念は、憲法一三条の「幸福追求権」をも基礎とするものであり、したがって、その保障は、子ども自身の主体的自由の尊重を前提としていることである。教育基本法一条が、教育が「人格の完成をめざし」「個人の価値を尊び」「自主的精神に充ちた」国民の育成を教育の目的と規定するのも、その趣旨を明らかにするものである。

また、前記旭川学力テスト事件最高裁判決が、教育内容の決定権限に関し、「自由かつ独立した人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されない」と判示したのも、子どもの主体的自由を基礎とした成長発達の自由を憲法二六条、一三条に根拠に確認した趣旨と解される。

そして、子どもの学習権は、子どもの主体的自由の尊重を基礎として保障されるとの要請は、教育内容の決定権限だけに妥当すると解する合理的理由は全くない。すなわち、右要請は、生活指導を含めた在学関係のすべてに貫かれるべきものである。

(三) 以上のことから、私立学校も、国公立学校と全く同様に、憲法二六条、一三条の直接の要請を受けるのであるところ、生活指導を含めたすべての在学関係について子どもの主体的自由が尊重されるべきことは、右憲法規定の要請の当然の帰結と解すべきなのである。

3、「私学教育の自由」は、憲法の適用ないし間接適用を否定する根拠とはならない

原判決は、「私立学校における独自の校風と教育方針は子供や親の有する私学選択の自由と対応する私学教育の自由の一内容として尊重されるべきである」と判示している。

これは校則の合理性判断における判示であるが、このような「私学教育の自由」を強調する議論は、憲法の適用を否定する根拠とされる余地もあるので、以下、そう解すべきでない理由につき述べる。

すなわち、公教育機関としての私立学校の場合には、前述したように、そもそも公的性格を有するものとして設置され、かつ憲法二六条、一三条の要請を直接受けるべき存在であることから、「私学教育の自由」も、そのような設置目的等によって、当初より規制ないし枠付けされていると解すべきである。したがって、私立学校の校風や教育方針についての自由は、生徒の人権の不当な侵害に至らない範囲においてのみ認められるというべきなのである。

また、いわゆる偏差値による学校序列化が進行している現在の実情をふまえれば、「子どもや親の私学選択の自由」は実質的に相当に制約されているのが実態であるから、この選択の自由に対応する形で私立学校の側にも「私学教育の自由」があるとの議論は現実的な基盤を持たないものである。

したがって、生徒の人権の不当な制約が許されないという点においては、私立学校と公立学校とで特段の差異が肯定される理由はなく、「私学の自由」は、右のような枠内においてのみ認められると解すべきである。

第二〈省略〉

第三、本件パーマ禁止および本件運転免許制限校則を有効とした原判決は、憲法一三条、二一条、二二条、二六条に違反する

一、本件パーマ禁止校則を無効ではないとした原判決は、憲法第一三条、二一条の解釈を誤るものである。

1、原判決は、「修徳高校のパーマ禁止校則の内容は社会通念上不合理なものとはいえないから、これを無効ということはできない」とする。また、一審判決が、「個人の髪型は、個人の自尊心あるいは美的意識と分かちがたく結びつき、特定の髪型を強制することは、身体の一部に対する直接的な干渉となり、強制される者の自尊心を傷つける恐れがあるから、髪型決定の自由が個人の人格価値に直結することは明らかであり、個人が頭髪について髪型を自由に決定しうる権利は、個人が一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定する権利の一内容として憲法一三条により保障されている」と判示した部分を削除していることから、髪型を自由に決定しうる権利が憲法一三条により保障されている点を否定しているとも解される。

2、しかし、髪型決定の自由は、憲法一三条により保障された人権である。

憲法一三条後段の幸福追求権は、少なくとも個人の尊厳に関わる人格的自律に必要な権利を人権として保障しているものと解される。一審判決が判示するとおり「個人の髪型は、個人の自尊心あるいは美的意識と分かちがたく結びついて」おり、さらに、坂本意見書(甲第五一号証)も指摘するとおり、「とくに女生徒の髪型に対する執着、髪を切らされることの悲痛さは理解し難いほど強い」のであって、髪型決定の自由は、人格的自律に直結する権利として幸福追求権の一内容となっている。

このような自己決定権に属する権利について、憲法一三条の保障の対象となっていることは、在監者の喫煙の自由について最高裁大法廷昭和四五年九月一六日判決(民集二四巻一〇号一四一〇頁)が、制限を許容しながらも認める点であり、在監者の髪型決定の自由についても、東京地裁昭和三八年七月二九日判決(行集一四巻七号一三一六頁)は、憲法一三条の規定から「個人のもつ蓄髪ないし調髪の自由に対して、国家は理由なくこれを制限することは許されない」と判示するところである。

3、また髪型の自由は、憲法二一条の表現の自由の一内容としても保障されている。

憲法二一条の保障する表現の自由は、言葉や文字による表現のみにかぎらず、象徴的表現も含まれることには争いはないところであり、髪型による表現も当然に憲法上保障される権利である。

もっとも、髪型による表現が必ずしも思想や意見の表明であるとは言えない場合もあり、それは憲法二一条の保障の対象とならないとしても、それらを区別せず、一律に髪型の自由を制限することになる規制は、憲法二一条に反することになるというべきである。

4、このように憲法上保障される人権である髪型決定の自由を制限するにあたっては、その自由を許容することが他者の人権を侵害することが明白であるなどの事由が存する場合に限定されるべきである。

ところが、原判決は、同校則が「社会通念上不合理なものとは言えないから、これを無効ということはできない」とする。

個人の人格的自律に関わる権利であり、かつ表現の事由の一内容とも言える髪型決定の自由を規制する校則の違法性を、「社会通念上不合理」か否かによって、しかも「不合理性」の立証責任が人権を制限される側に課される形で判断すること自体、憲法一三条、二一条に違背するものというべきである。

5、さらに、パーマ禁止校則が不合理なものといえないとする原判決の判断自体が憲法一三条、二一条に違背するものである。

原判決は、一審判決を引用し、「右校則の目的は、高校生にふさわしい髪型を維持し、また、非行を防止することにあると認められる」とし、「高校生にふさわしい髪型を確保するためにパーマを禁止することは、右目的実現に不必要な措置とは断言でき」ないとした上、「右校則は特定の髪型を強制するものではない点で制約の度合いは低い」こと、「修徳高校に入学する際、パーマが禁止されていることを知っていたこと」、「同様の内容の規制は現在多くの学校の校則等で定められていること」からすれば、同校則が「社会通念上不合理なものとは言えないから、これを無効ということはできない」とする(その他に私学教育の自由をも理由として掲げているが、それが人権制約の根拠となしえないことは前述のとおりである)。

しかし、パーマ禁止校則の目的と実際の校則の内容には合理的関連性が存しない。

「高校生にふさわしい髪型を維持するためにパーマを禁止する合理性は存しない。中野意見書(甲第六四号証)も指摘するように、「現代女性の髪型でパーマは極く普通のものである。特別派手なパーマや異様な髪型を禁止するのはともかく、すべてのパーマを一律に禁止するのは、今日の女性の社会通念から見て合理性が認められない」のであり、実際に都立高校の多くはパーマを禁止していない。

非行防止という目的については、原判決、一審判決共に言及していないことから明らかなように、パーマ禁止校則とは何ら関連性がない。パーマが非行化の原因になるということはない。非行化した子どもが、その結果としてパーマをかけている場合があるかもしれないが、その場合にパーマを禁止しても非行防止には繋がらず、非行自体を指導しなければならないことは自明の理である。

6、さらに、原判決は、同校則は特定の髪型を強制するものではない点で、制約の度合いが低いと判示するが、そもそも、目的と手段に合理性のない校則が、制約の度合いが低いからと言って許容される理由にはならない。

また、上告人が、入学する際、同校則の存在について知っていたという点については、現在の高校進学の状況においては成績を基準にして進学先が決定されており校則の具体的内容を選択基準とすることなど到底不可能であるという現状認識が全く欠如したものである。このような現状においては、入学時に校則の内容が知らされていたことをもって、校則の適法性要件が緩和されることにはならない。まして、人権侵害にわたる校則について、生徒側がそれを認識していたことをもって、有効になるということは到底許容されないというべきである。

さらに同様の規制は現在多くの学校の校則等で定められているとするが、多くの学校でのパーマ禁止校則は、非強制的な生活指導の基準としてのものであり、修徳高校のように退学処分を含む懲戒処分によって強制されるものではない。従って、校則の本質的意味が異なるのであって、「同様の内容の規制」が存するとは言えない。むしろパーマ禁止校則の違反を理由として退学処分ないし自主退学勧告を行うことは多くの学校の校則で定められているとはいえず、退学処分ないし自主退学勧告を行うことは「社会通念上不合理なもの」というべきである。

従って、本件パーマ禁止校則が無効でないとする原判決はいずれも不合理であって、憲法一三条、二一条に違背するものである。

二、本件自動車免許取得制限校則を無効ではないとした原判決は、憲法第一三条、二二条の解釈を誤るものである。

1、原判決は、「修徳高校の運転免許取得制限校則の内容は社会通念上不合理なものとはいえないから、これを無効ということはできない」とする。

2、しかし、自動車免許取得の自由は、憲法一三条により保障された人権である。憲法一三条後段の幸福追求権は、前述のとおり、少なくとも個人の尊厳に関わる人格的自律に必要な権利を人権として保障しているものと解されるのであるが、自動車免許の取得及びこれによる自動車の運転は、単に移動の手段であるというに止まらず、職業選択の重大な一要因であったり、さらには自己実現の手段でもある。この意味で、一審判決が「自動車の運転免許を取得して、自動車を運転することは、社会生活上尊重されるべき法益ということができる」としながら、「しかし、運転免許取得の自由と個人の人格との結びつきは間接的なものにとどまる」としているのは誤りである。

自動車運転免許の取得及びこれによる自動車の運転もまた、髪型の自由と同様人格的自律に直結する権利として幸福追求権の一内容となっている。

また、自動車運転免許の取得は、一定の職場への就職に不可欠であって、その免許取得を制限することは、職業選択の自由を著しく侵害することになる。従って、自動車運転免許の取得は、憲法二二条一項の職業選択の自由によっても保障されている。

3、したがって、憲法上保障される人権である自動車免許取得の自由を制限するにあたっては、その自由を許容することが他者の人権を侵害することが明白であるなどの自由が存する場合に限定されるべきである。

ところが、原判決は、ここでも、同校則が「社会通念上不合理なものとは言えないから、これを無効ということはできない」とする。

個人の人格的自律に関わる権利であり、かつ職業選択の自由の一内容とも言うべき運転免許取得の自由を規制する校則の違法性を、「社会通念上不合理」か否かによって、しかも「不合理性」の立証責任が人権を制限される側に課される形で判断すること自体、憲法一三条、二二条に違背するものというべきである。

4、さらに、運転免許取得制限校則が不合理なものといえないとする原判決の判断自体が憲法一三条、二二条に違背するものである。

原判決は一審判決を引用し、「右校則の目的は、交通事故から生徒の生命身体を守り、非行化を防止し、もって勉学に専念する時間を確保するところにあると認められ、生徒が自ら死傷し、あるいは他人を死傷させた場合、在学関係設定の目的の実現に重大な支障をきたすことは明らかであり、しかも、運転免許の取得を制限すれば事故発生率が減少することは期待できるのであるから、在学関係設定の目的実現のために、右校則を制定する必要性は否定できない」とし、「学校は就職希望者で免許の必要な者には個別的に免許を取得する余地を認めていた」こと、「原告は修徳高校に入学する際、運転免許取得につき制限があることを知っていた」こと、「同様の内容の規制は現在多くの学校の校則等で定められていること」から、社会通念上不合理ではないとする。

しかし、その目的として掲げる内容と免許取得禁止との間には合理的関連性が存しない。

第一に、「交通事故から生徒の生命身体を守る」という目的については、実際は、運転免許の取得を禁止をすることにより「事故発生率が減少する」という関係にはない。いわゆるバイク三ない校則について指摘されているように、バイク三ない校則の導入により、むしろ無免許運転が増大し、逆に交通事故が増大している事実が指摘されている。しかも、四輪自動車はバイクと比較しても事故の確率は低く、正式に自動車免許を取得して運転をするのであれば、事故発生の可能性は低いのであって、到底免許取得の自由の制限を肯定する理由とはなりえない。その様な危険性のみで、禁止するのであれば、スポーツも禁止対象となるであろう。

第二に、運転免許取得と非行防止の関連性については、何ら明らかな証拠はなく、原判決、一審判決共に言及していないことから明らかなように、運転免許取得制限校則とは何ら関連性がない。四輪免許取得と暴走族の関連性についても、極めて低いことはすでに指摘されているとおりであり(甲五一号証、六四号証)、これらは、実際の暴走行為を警察によって規制すれば充分であり、これもまた極めて低い可能性で、運転免許取得を禁止する理由とすることは許されない。

第三に、「勉学に専念する時間を確保する」という理由により、運転免許取得の自由の制限が許容されるとすれば、勉学以外のあらゆる行為がこの理由によって制限できることになる。スポーツや旅行の禁止によって、確実に勉学に専念する時間は確保することになる。

しかし、勉学に専念させるのは、教師が本来の職務である教科教育の内容を充実させることによって実現されるものであって、それ以外の個人生活を制限することによって実現されるものではありえない。まして人権を制約する理由とならないことは明らかである。

5、さらに、原判決は、就職希望者で免許の必要な者には個別的に免許を取得する余地を認めていたことを判示するが、その運用により、憲法二二条一項の職業選択の自由に対する侵害の程度は低下するにしても、憲法一三条による幸福追求権に対してなお侵害があることは否定しえない。

また、上告人が、入学する際、同校則の存在について知っていたことを挙げることは、パーマ禁止校則について述べたことと同様に不当であり、さらに同様の規制は現在多くの学校の校則等で定められているとの点については、むしろ同様の規制は廃止ないし変更される方向にあるのであり、「社会通念上不合理なもの」となっているというべきである。

従って、本件自動車運転免許禁止校則が無効でないとする原判決はいずれも不合理であって、憲法一三条、二二条に違背するものである。

三、なお、憲法が私人間には直接適用されないとする間接適用説によるとしても、上述の趣旨からすれば、本件パーマ禁止校則および本件自動車運転免許制限校則は、いずれも教育基本法一条、民法一条及び九〇条に反するものとして違法・無効であるから、これらを有効であるとした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある。

第四〈省略〉

第五、本件処分(実質的退学処分)は、学校教育法、同施行規則などに違反し違法・無効なものであるところ、これをみすごして処分を合法とした原判決の法律判断の誤りは重大であって、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである

一、パーマ禁止校則、普通自動車免許制限校則違反は懲戒処分の根拠となるとした法的判断の誤り

前述したとおり、パーマ禁止校則および普通自動車免許取得制限校則で生徒の自由を規制すること自体が、違憲ないし違法である。

ましてや、右校則違反を根拠に懲戒処分を科することは、以下に述べるとおり明らかに違法である。

1、懲戒は生徒の自由や権利を強く制限ないし剥奪する処分であるから、その要件は厳格でなければならない。

懲戒の根拠として有効となるためには、強制的に生徒の権利制限を行なう必要性と合理性があるのかどうかを、厳格に審査しなければならないのである。

前記第三、で詳述したとおり、パーマ禁止および自動車運転免許取得制限には合理的理由がなく、ましてや懲戒をもって遵守を強制する必要性も合理性も認められない。

2、ところが、原判決は、右校則の合理性や必要性について人権や教育の視点から深く検討することなく、「パーマ禁止校則や普通自動車免許取得制限校則は、現在多くの高校で定められていることからすれば、社会通念上不合理とはいえないから、これを無効ということはできない」と述べ、これをうけて直ちに、「よって、校則は有効であり、生徒の行動を規制する効力を持つというべき」と結論づけている。

しかしながら、原判決の右論理には、前提事実に重大な誤りがある。

修徳高校の外にも同様の校則を定める高校があるといっても、そこでの校則の運用は修徳高校と全く異なっている。甲第四六ないし四八号証のアンケート結果によっても明らかなとおり、パーマ禁止を定めている修徳高校以外の高校において、その校則違反を理由に懲戒を科しているところは皆無である。すなわち、他の高校のパーマ禁止校則は、いわゆる生活指導規定にとどまり、懲戒規定ではないのである。

強制力のない指導規定として有効であるからといって、直ちに生徒の権利や自由を制限する懲戒規定として有効となるものではない。

都内二三区ではパーマ禁止していない高校が大半であり、仮りに校則にはパーマ禁止と明記している高校であっても、その違反を理由に懲戒を行なうことはないという現実をみるならば、パーマ禁止校則には強制力はないということこそ「社会通念」なのであって、原判決の言うところの「社会通念」なるものは、全くの机上の空論である。

3、さらに、原判決言渡後の平成四年一一月に上告人が実態調査をした結果(後に提出する)によれば、修徳高校の校則の運用自体が昭和六三年当時とは大きく変わっている。現在は、「学校指定の通学路以外を通っての登校を禁止する校則」や「買い食い禁止の校則」、「スカートの長さ制限校則」などに違反した生徒に対しても、右校則違反を理由に生徒を罰したり懲戒を加えるという運用はかげをひそめている。このことは上告人が修徳高校に通学していた当時には考えられなかったことである(関根竹美証言参照)。

すなわち、修徳高校自身が校則を即懲戒処分規定とする運用の誤りを認め、これまでの生活指導のあり方を改めて、校則をあくまでも指導規定と位置づけ直したのである。そうすることによって修徳高校の運営や生徒の学校生活に何らの不都合も生じていない。この事実をみても、原判決の判断の誤りは明らかといわなければならない。

二、学校教育法一一条、同法規則一三条の予定する生徒懲戒の性質についての法令解釈の誤り

原判決は、その八丁表において、自主退学勧告に従うか否かの意思決定の自由が事実上制約される面があることを認め、本件の自主退学勧告は懲戒処分と同視すべきものと位置づけ、その処分を行なうにあたっての要件は「懲戒を行なう場合に準じ」て判断すべきものとしている。

本件処分の法的性格は原判決の述べるとおり懲戒であり、その実質は退学処分である。しかし、原判決のいう生徒懲戒の性質についての理解と判断は、以下に述べるとおり、根本について誤っている。

1、原判決は、懲戒の性質を次のように述べる。すなわち、「(懲戒とは、)学校の内部規律を維持し、教育目的を達成するための自律作用である」(原判決七丁表、八丁表)。

原判決の右見解は、最高裁判所昭和四九年七月一九日昭和女子大退学処分事件判決(判時七四九号三頁)の文言の一部をそのまま引用したものであろう。

2、しかしながら、右引用において、原判決は重大な誤りをおかしている。そもそも、右最高裁判決の右文言の冒頭には「大学の学生に対する懲戒処分は」と限定する文言が付記されていることを見過ごしてはならない。すなわち、右最高裁判決は、大学生の懲戒に関する判断であって、高校生の懲戒に関するものではないのである。

ちなみに、学校教育法は、大学と高等専門学校で学ぶものを学生、中学校および高等学校で学ぶものを生徒として区別している。

3、そもそも生徒らに対する懲戒に関しては、学校教育法一一条が「教育上必要があると認めるとき」と定め、同施行規則一三条一項が「児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」と定めているところから明らかなとおり、その性質は、行政官庁や企業などにおける内部規律維持目的の“管理的処分”としての懲戒とは全く性質を異にしている。すなわち、教育機関としての学校が生徒に科する懲戒は、あくまでも当該生徒の人的成長発達を援助し、その最善の利益をめざすという観点にたって、その生徒の人間教育に必要な限度においてのみ行なわれるべき“教育的処分”なのである。百歩譲って、大学の学生については、他の学生や教職員の権利との衝突の調整が必要な場合も生ずる余地があり、右最高裁判決の述べる如く、「大学の内部規律の維持」という要素を入れうるとしても、高校や中学校の生徒そして小学校の児童の懲戒においては、あくまでも当該生徒・児童個人に対する教育の観点を逸脱することは許されない(同旨、兼子仁、有斐閣法律学全集「教育法(新版)四四六頁)。

その意味で、原判決が大学の学生懲戒について論じた最高裁判所の「大学の内部規律を維持し」という判旨を安易に引用して、そのまま高校の生徒懲戒の法的性質を判断したことは、出発点において重大な誤ちに落ち入っているのである。

三、本件処分が許容される要件についての法的判断の誤り

右に述べたとおり、学生の懲戒と異なり、生徒の懲戒はあくまでも教育的処分でなければならないのであって、“管理”的発想は極力排除されなければならない。学校教育法一一条が、懲戒は「教育上必要があると認めるとき」に限り行なうべきものと定めているのは、まさにその趣旨である。教育とは、当該生徒の教育を受ける権利に対応し、その人間としての成長と発達を支援する営みであることを忘れてはならない。

生徒懲戒が教育的処分である以上、退学処分は他に方法がないという極限の場合に限り許される処分である。何故なら、退学処分は生徒に対する教育を放棄する行為であり、学校教育の敗北ともいうべき処分だからである、学校教育法施行規則一三条三項が公立の小学校、中学校、盲学校、聾学校、養護学校の児童・生徒の退学を禁止し、その他の生徒らに対しても、退学の要件を限定したのは、退学は極力避けなければならないという趣旨に外ならない。

1、退学処分の実体的要件

(一) 原判決は、本件処分(実質的退学処分)の合法性の判断基準として「問題となっている行為のほか、本人の性格、平素の行状及び反省状況、右行為の他の生徒に与える影響、処分の本人及び他の生徒に及ぼす効果、右行為を不問に付した場合の一般的影響等諸般の要素」を挙げている(原判決八丁)。

右基準は、基本的には前記最高裁昭和四九年七月一九日判決によったものである。

しかしながら、前述したとおり右最高裁判決は大学生の懲戒処分に関する判示であって、“管理的処分”を排除する高校の生徒に対する懲戒の要件にそのまま適用することはできないものである。

(二) ことに、退学処分は、懲戒処分の中でも「極刑」とも言うべきものであるから、懲戒処分の一般的要件とは質的に異なる特別要件が満たされなければならない。

ここで注目すべきは、大学生の懲戒について述べた右最高裁昭和四九年七月一九日判決さえ、退学処分に関して、次のように述べていることである。すなわち、「(学校教育)法施行規則一三条三項は、退学処分についてのみ四個の具体的な処分事由を定めており、被上告人大学の学則三六条にも右と同旨の規定がある。これは退学処分が、他の懲戒処分と異なり、学生の身分を剥奪する重大な措置であることにかんがみ、当該学生に改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむをえないと認められる場合にかぎって退学処分を選択すべきであるとの趣旨において、その処分事由を限定的に列挙したものと解される」として、この観点から「他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮」を要請している。

ましてや、被処分者が年齢的に心身のバランスを欠きがちで人格形成途上にある高校生である場合には、「当該生徒に改善の見込みがない」という退学処分の要件の認定は、大学生以上により一層の教育的配慮の下に慎重かつ厳格になされるべきは当然のことである。

原判決は、右最高裁昭和四九年七月一九日判決のいう大学生の懲戒についての一般的判断要素を併列的に列挙したにとどまり、右最高裁判決も指摘している退学処分に特有な選択要素については判断の枠外に切り捨ててしまっているのである。このような原判決は、最高裁判所昭和四九年七月一九日判決をも無視するものと言うべきである。

(三) 高校生の退学処分に関する最高裁判決としては、平成三年九月三日千葉バイク退学事件判決(判時一四〇一号五六頁)がある。そこでは、「上告人の行為の態様、反省の状況及び上告人の指導についての家庭の協力の有無・程度など」が列挙されている。すなわち、生徒の退学処分の場合において重視されるべき要素は、問題とされた行為の重大性、および問題とされた行為が発見された後の生徒の反省の状況と、発見後の生徒に対する改善、指導の可能性である。

すなわち、学校・教師が指導を行なうことによって、当該生徒に改善が見込まれ無事卒業を迎えられるかどうかが最も重大な判断要素になるというべきである。

(四) 右の最高裁平成三年九月三日判決をも踏まえて、学校教育法施行規則一三条三項の退学要件を検討する。

「性行不良で改善の見込みがないもの」とは、問題行動が発覚したのちに、学校・教師が保護者と連絡をとるなどして当該生徒に対する指導を尽くしたが、それでも当該生徒に改善のきざしがなく、退学以外に他の処分を選択する余地がない場合である。

「学校の秩序を乱し、生徒の本分に反したもの」とは、行為の反社会性が重大で、学校や他の生徒に重大な実害をもたらしたものをいうが、この場合でも当該生徒の教育を受ける権利を保障するため、「改善の見込み」を重視し、できる限り学外からの排除は謙抑的でなければならない。

2、退学処分の手続的要件(教育的適正手続の履行)

(一) 前述したとおり退学処分は、学校・教師による教育の放棄であり、生徒の学校において学習する権利をはく奪する処分であって、その影響は当該生徒の一生を左右しかねないほど重大なものであるから、その決定においては、当該生徒の言い分を十二分に聴取し、慎重のうえにも慎重な手続を履行しなければならない。

そこで、処分決定の前提として、当該処分の理由となる事実を生徒および保護者に告知し、それに対する生徒と保護者の弁明の機会を確保することは、最低限なすべきことである。

加えて、問題行動が発覚した以降、学校・教師は、生徒および保護者に対し、今後の改善に向けての適切な指導・援助を行ない、その指導に対する生徒・保護者の対応を見て、今後学校側の指導に従って学校生活を継続していけるかどうかの見通しを十分に検討する必要がある。

右適切な教育的配慮や指導・援助を尽くした結果、当該生徒に改善のきざしがなく、もはや学外に放逐することが教育上やむをえないという場合にはじめて、退学が合法となるのであり、このような教育的適正手続を尽くしていない退学処分は、違法となるのである。

(二) 退学処分を科するにあたっての教育的適正手続の履行の必要性を明解に判示したのが、東京高等裁判所平成四年三月一九日修徳高校バイク退学事件判決である(判時一四一七号四〇頁・確定判決)。

同判決は、校則に違反してバイクの運転免許を取得し、バイクに乗っていた高校生を退学にした学校の処分を違法としたが、その中で「とくに、人格形成の途上にある高校生である場合には、退学処分の選択は十分な教育的配慮の下に慎重になされることが要求される」と述べ、続いて、校則違反の発覚から処分に至るまでの一〇日あまりの「過程において、できるだけ退学という事態を避けて他の懲戒処分をする余地がないかどうか、そのために(生徒本人)や両親に対して、実質的な指導あるいは懇談を試み、今後の改善の可能性を確かめる余地がないかどうか等について慎重に配慮した形跡は認められない。こうした学校側の対応は、いささか杓子定規的で違反行為の責任追及に性急であり、退学処分が生徒に与える影響の重大性を考えれば、教育的配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない」と判断した。

すなわち、当該生徒が違反行為を断ち、無事に今後の高校生活を過ごす可能性があるのであれば、「改善の見込み」はあるのであり、安易に「指導の限界」と決めつけてはならないのである。

3、原判決も認めるとおり、本件処分は上告人を学外に追放する懲戒処分として退学と同視しうるものであるから、本件処分の適法性判断は、上告人に前記退学処分の実体的要件が認められるか、および修徳高校が教育的適正手続を履行したと認められるか、ということになる。

ところが、原判決は、退学の要件を限定した学校教育法施行規則一三条三項をあえて無視し、また、できるだけ退学という事態を避けるため生徒本人や保護者に対し指導を試み「今後の改善の可能性を確かめる余地がないかどうか等について慎重に配慮する」という教育的適正手続の履行を全く考慮していない。

すなわち、原判決は、そもそも高校生を退学させるにあたって当然配慮すべき実体的および手続的要件についての法的認識を欠落させているのであって、その法律判断の誤りは重大であり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れないのである。

第六ないし第一〇〈省略〉

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